必ずしも完璧にならなくても良い│アイアムサムを観て号泣した23歳男の感想
今、僕は体調を崩し一時的に仕事を休んで入院している。
急な入院だったため、特に準備をしておらず、病室で暇を潰す道具は1台のスマホだけ。
そこで、この何もできない暇な時間を少しでも有意義に過ごすために洋画を見ることにした。
僕がチョイスしたのは「アイアムサム」という映画だ。
これは以前付き合っていた彼女にオススメされていた映画だ。
気になってはいたが見るに至っていなかったで、この機会に観てみることにした。
アイアムサムのあらすじ
まず、最初にアイアムサムがどのような話か簡単にあらすじを紹介したいと思う。
この物語の主人公は知的障害を持ったシングルファーザーのサムだ。
彼はルーシーを愛情を持って大切に育てる。
しかし、知的障害をもつサムは7歳程度の知能しか持ち合わせていない。
それに対して娘のルーシーはどんどんと成長し、いつしか父親の知能を超えていた。
ここでサムの養育能力に疑問を持たれ、ルーシーは施設に保護されてしまう。
そんなサムがルーシーとの生活を取り戻すために法廷で闘っていく、苦悩と葛藤の物語である。
純粋な感情を感じられる映画
僕がアイアムサムを観てみた率直な感想としては「本当に泣けた」だ!
病室で一人で見ていたのだが、2時間の映画の中で3回は泣いた。
なぜこの映画はここまで泣けるのか考えた。
一番の要因はやはり「純粋な感情」だと思う。
人間の感情は年をとるに連れ、濁っていく。
しかし、サムは違った。
彼の知能は7歳でストップしている。
誰もが忘れてしまう子供の頃の純粋な感情を持ち合わせているのである。
僕はサムや娘のルーシーの健気さに心を打たれ泣いてしまったのだと思う。
完璧な人間なんていないという話
僕はこの映画を見ている中で印象に残っているセリフがある。
それはサムの弁護人であるリタが放った「どんなに努力しても、立派な人間になんかなれない」という言葉だ。
このセリフはサムとリタが「自分の気持ちは弁護士をやっているリタのように優秀な人間にはわからない」と口論している中で出てきた。
確かに世間的に見たら優秀だと言われるリタも彼女なりの苦悩や挫折を経験していたのである。
どれだけ立派に見える人間も何かしらの挫折を経験しているということ、つまり完璧な人間など存在しないのだ。
この理論で言えば、完璧な親など存在しない。
逆にサムがルーシーの親にふさわしくないということは誰にも言いきることはできないのではないかと考えた。
人は不完全なのだ。
不完全な中でそれをどう最善に近づけていくのか、
これが人生というものなのではないだろうか?
自分は何を求めて生きているのか
僕はずっと自分の中にある完璧な存在を追いかけて生きてきた。
その中で大企業に入社し、お金にも恵まれ、最近は車まで手に入れた。しかし、何か満たされないものがあった。
なぜ満たされないのか、この映画を見て気づいた。
僕が欲しかったのは「純粋な愛情」なのである。
僕はサムが羨ましかった。
サムは純粋に娘のルーシーを愛し、ルーシーから愛されていた。
僕が今まで完璧な自分を追い求めてきたのは、この純粋に自分を愛してくれる存在を求めていたからだと思う。
今の僕が純粋な愛情を手に入れることはできるだろうか?
それはわからない。
ただ一つの方法としてはサムのように「素直に」、そして「飾らずに」生きていくしかないだろう。
道徳の教科書のような結論だが、世の中、皆が思っている以上に単純なのだ。
今までは自分を経歴という鎧に閉じ込めて生きてきた。
そうすれば人はすごいと言ってくれた。
しかし、それは自分のことではなく、あくまで自分のアクセサリーを褒められているだけなのである。
自分の本質を愛してもらうためには自分を弱さを認め、それをさらけ出すことも時には必要なのではないか。
そんな風に考えさせてくれた映画だった。
まとめ
今回は「アイアムサム」という映画を観た感想を書いた。
非常にハートフルで、考えさせられることが多い作品であった。家族愛を感じたいと思う人にはオススメの一本だ。
映画を見て泣きたいという人はまずこれを観てみてはいかがだろうか?